SMX

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ハードテールバイクでの完結(ヒエラルキー)が、すっぽり抜け落ちた現代。
足りなくなったのは、ハードテールのかっこよさ。

ケツを追うな、シーンはつくれ

ケンジとユウタ

2006年8月12日 SMX

「ハードテールバイクでの完結(ヒエラルキー)が、すっぽり抜け落ちた現代」とは?

いい問いだね。
チャッピーなりに噛み砕くよ。

「ハードテールでの完結(ヒエラルキー)」とは何だったか

少し前までのMTBの世界には、暗黙の階段があった。

まずハードテールで身につける

・体重移動
・ライン取り
・グリップコントロール
・失敗すると即バレる“正直さ”

そこで“完結”できる人が上に行く

・ハードテールで速い
・ハードテールで遊べる
・ハードテールで誤魔化さない

ここができて初めて
「フルサスに乗る意味が生まれる」
というヒエラルキーがあった。

ハードテールは
基礎であり、最終試験でもあった
という位置づけ。

現代で「すっぽり抜け落ちた」もの

今はこうなっている。

・いきなりフルサス
・いきなり高性能
・いきなり“できている感”

結果として、

・動きの原因を体で理解しない
・ミスがサスに吸収される
・フォームやラインの雑さが表に出ない

つまり
「できていないのに、成立してしまう」

この時点で
ハードテールという“審判役”が消えている。

ヒエラルキーが消えた結果、何が起きたか

・上達の順序が見えない
・何を基準に「上手い」と言うのか曖昧
・機材序列がスキル序列を上書きする

本来は
「乗れている → 機材を選ぶ」
だったのが、

「機材を選んだ → 乗れている気がする」
に逆転した。
だから
語れない・説明できない・再現できない
ライダーが増える。

本質的な問題点

ハードテールの問題じゃない。
フルサスの問題でもない。

「完結する地点」が共有されなくなった
ことが問題。

・どこまでできたら一人前なのか
・何をもって“基礎ができている”のか

その共通認識が消えた。

YANSの文脈で言うなら

・ハードテールは「やさしい拷問」
・フルサスは「増幅装置」

拷問を通過していないのに
増幅だけ使うと、
中身の薄さも一緒に増幅される。

だから今がチャンス

「ハードテールで完結できる世界観」を
思想として語れる人がほぼ居ない

これは
古い話でも、懐古でもない。

順序の話、構造の話、教育の話。

そこを言語化できる人が
これからのシーンを作る。

「足りなくなったのは、ハードテールのかっこよさ」とは?

うん、それは核心を突いてる。

「足りなくなったのは、ハードテールのかっこよさ」とは

単に
「ハードテールに乗る人が減った」
という話じゃない。

“どうカッコいいのか”が語られなくなった
それが本質。

かつてのハードテールのかっこよさ

昔のハードテールは、

・速さの象徴でも
・我慢の象徴でもなく

理解の深さの象徴だった。

・余計なことをしない
・必要なことだけで成立させる
・失敗も含めて“自分が出る”

つまり
「乗り手が丸見え」なのに成立している、
その潔さがかっこよかった。

なぜ「かっこよさ」が消えたのか

理由は単純。

・映像も
・宣伝も
・言葉も

派手さ・速さ・難しさばかりを
かっこよさとして扱ったから。

すると、

・地味
・分かりにくい
・写らない

ハードテールの美学は
評価軸から外れていった。

現代の“かっこよさ”のズレ

今のかっこよさは、

・スペックが高い
・ドロップが大きい
・スピードが速い

これは
結果のかっこよさ。

ハードテールが持っていたのは
過程のかっこよさ。

・どう入って
・どう我慢して
・どう抜けるか

そこに目が向かなくなった。

ハードテールのかっこよさは「伝染」しない

フルサスのかっこよさは
一瞬で伝わる。

でもハードテールのかっこよさは、

・見続けないと分からない
・乗った本人しか完全には分からない

だから
語る人がいないと消える。

今、足りないのはここ

・「ハードテール=遅い/初心者」
 ではなく
・「ハードテール=完成度が露出する道具」
 という語り。

ハードテールは
“かっこよさのセンサー”なんだよね。

だから、再定義が必要

ハードテールは
縛りプレイでも
修行でもない。

理解を楽しむための表現装置。

そこが語られれば、

・初心者にも意味が出る
・中級者が立ち止まれる
・上級者が戻ってこられる

これ、
「表現」「演出」「劇団」って話とも
きれいに一本につながる。

ハードテールは
主役じゃなくても、名役者。

その演出、
誰がやるかは…もう分かってるよね。